日記 埼玉時代、収穫したお米は品種名とは別に、その年毎に自分達で名前を付けていました。
収穫したお米を差し上げる際には、その名前をつけたラベルを紙袋に貼り、 その名前の意味を伝える為のお手紙を添えていました。それが埼玉の農本日記です。

02年 はじめのいっ穂

この春、埼玉県の毛呂山町にちいさな田んぼを借りました。
去年までは畑だった場所なので
まず、畔を作りました。
次に田んぼの一部に苗代をつくり
そこに、5千粒ほどの種をきれいに並べて蒔きました。
一粒の種が一本の苗になりました。
梅雨に入る少し前、
その苗を一本ずつ田んぼに植えました。
稲が膝ほどの高さになった時
沢山の青虫が稲の葉を食べ始めました。(悲しくなりました。)
夏を迎える頃、稲の根元に大きな斑点が見つかり
その病気はあっという間に田んぼじゅうの稲に広がりました。(不安になりました。)
それでも、旧盆の時分になると
細く尖った葉っぱの中に緑の穂が生まれ
その穂の周りに小さな白い花が咲き
うるさいほどの蜂の羽音が田んぼを包み込みました。(天国のようでした。)
夏が終わりにさしかかると十万本の稲穂がお辞儀をしたようなので
私達も慌てて頭を下げました。
だって、お礼を言うのは此方の方ですし
何も出来なかったことをお詫びしたい位なのですから。
『本当に何と申して良いのやら、
 こちらこそ大変お世話になりました。
 それに、田んぼが棲家の小さな生き物たちに
 鎌北湖から流れてくる水と
 遠く空から照らしてくれたお日様にも
 何と申して良いのやら
 大変、大変お世話になりました。』
私達はペコペコ頭を下げるばかり、
そんな小さな『はじめのいっ穂』です。

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03年 おかげさま

春になって田んぼの脇の水路に水がやってくると、大急ぎで苗代作りが始まります。
そこに植えた苗の葉っぱが7枚にもなると、いよいよ田植えを迎えるのですが
そんな折、高麗川のばあちゃんが『今年は降るでぇ。』と言いました。

しばらくすると冷たい雨が降り、田んぼに植えた稲はサワサワと震えだしました。
更に、なかなか明けない梅雨にその葉を広げるのをためらっています。
蜘蛛達も狂ったように巣を張り巡らすのですが、その巣を揺らす虫の姿は見えません。
それは、夏のお日様がいつまで待っても現れないから。

姿を見せないお日様を、稲が『恋しい恋しい』と葉っぱを震わせ泣いています。
その恋しさに身を焦がしたのか
葉っぱは茶色く垂れ下がり恋の病にかかったようです。
くるんであげる布団もないし慰められる言葉も無いから、頑張れなんて言えないよ。
冷たい夏に、私達もうな垂れるばかりでした。

ところが、旧盆を過ぎて遅れてきた夏のお日様がニッコリ顔を見せるやいなや
稲もポロッと笑顔を見せて、その笑顔の端から薄い緑の穂がこぼれ落ちました。
その穂に咲いた白い小さな花達が、お日様の光に照らされてクスクス笑い出すと
それにつられて蜂達も、人間達も笑い出します。

遅れてきた夏のお日様はチョッピリばつが悪そうに、秋の空にも顔を出しては苦笑い。
去年よりひと回りほど小さな稲は、それでも怒るわけでもなく
有難そうに頭を垂れてお辞儀をしています。
私はお日様の遅刻に少しばかり腹を立てたけれど、やっぱり稲を見習い頭を下げます。
だって今年も私達には、結局何も出来なかったのですから。

空から届く暖かな日差しと、降り注ぐ雨のお陰です。
幾人もの人の手と、田んぼに息づく小さな生き物たちのお陰です。
北に暮らす人達を思えば、なんとも申し訳無い様な
ただひたすらの『おかげさま』です。

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04年 福笑い

桜の花の下でみんながはしゃぎ始める頃、眠っていた種籾をタライの水に浸します。
種籾が目を覚まし白く小さな芽をだすまで、水は毎日取り替えます。
去年までは苗代に、今年はお盆の様な『苗箱』にその種を蒔きました。
十日もすると田んぼに並べた苗箱の中に、針のような緑の葉っぱがそろって顔を出しています。
次に苗箱をのぞいてみると、葉っぱは2枚に増えていてきれいな緑が眩しいようです。
ところが、その次に苗箱を覗いたときに初めて気が付きました。
葉っぱの数は増えていないし、緑の色も薄くなっているようです。
『苗箱にはよぉ、肥やし入れなきゃよぉお。』3軒先の田んぼの先生に言われました。
今年は顔をみせない上の田んぼの先生には、最初の年に『苗半作』と教わっていたのに 最初の最初、肝心要で失敗してしまったのです。
田植えの日、雨がちらついていました。
充分な仕度をしてやれなかった苗たちに、一人立ちを強いるようで心苦しく思いながら
小さな苗を2本ずつ、それでも田んぼに植えました。
それからはゆっくりとではありますが、葉っぱの数がだんだん増えて
相変わらず緑は少し薄いようですが、背丈も大分伸びてきました。
けれど今年は気の早い夏のお日様が、梅雨の雲を遠くへ吹き飛ばしてしまいました。
気が付けば、水路の水も心もとないようです。
暑すぎる春は、田んぼの土を湧き上がらせて稲の根を腐らせます。
水の少ない田んぼでは、雑草たちが稲を覆うほどに増えてしまいます。
肥えた田んぼの稲株は大きいけれど、寒い夏には病気が出るし
秋の長雨は干した稲穂を傷めます。
それでも、どんな季節がやって来てもめぐる時間は同じです。
稲刈りの日、雨がちらついていました。
失敗と心配を繰り返す私たちに引き替え、稲は与えられた精一杯で穂をつけています。
『私だって毎年一年生だよぉ。』上の田んぼの先生が最初の年に言っていました。
だったら今年も私達は『落第生』、実った稲は『優等生』でしょうか。
畦に咲く花も田んぼに遊ぶ生き物も、みんな訳知り顔でそこに居ます。
いつも私達だけが遅れてやって来ては、後から答えを教えてもらうのです。
次にやって来る年がどんな年でも、みんなで笑い合いたいから
届けたいのは『福笑い』です。

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