プロフィール なんで農業を始めたの?
なんで松崎にやって来たの?
エッサホイサ堂がここに辿り着くまでの『道のり』をお話します。

エッサホイサ堂

現在のエッサホイサ堂は、『吉田君』と『おみず』の2人で構成されています。 2人は別姓を名乗っていますが夫婦です。

『エッサホイサ堂』というのは、お祭り等で 鍋焼きパンやサモサを作って出店していた時に使っていた屋号です。 農園の名前としてはちょっと変ですが、 結婚する前から10年以上使っていたので愛着もあり、 そのまま使っている次第です。

以前は埼玉の川越に住んでいましたが、 昨年9月、農業を始める為に伊豆・松崎に引っ越して来ました。 結婚当初からエッサホイサ堂では農業をしたいという野望を抱いていましたが、 その実現の第一歩を踏み出した訳です。

野望達成に向けて、そして更なる野望を内に秘めるエッサホイサ堂です。

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なんで農業なの?

『吉田君』は埼玉で、『おみず』は東京で生まれ育ちました。 残念ながら、どちらも農家の出身ではありません。

都市で暮らしている時は、 『仕事をする→お給料をもらう→消費する』という生活でした。 そのサイクルの中でより良い生き方は?と考えた時、 良心的な消費をするという意味で 有機農産物を売るお店で買い物したりもしましたが、 もっとシンプルに『作る→食べる』という生活に変えたいと思いました。

だったら自給自足でいいんじゃない?という話になります。 『農業じゃ食べていけない。』とも言われましたが、 その言葉が逆に『それでいいの?』という疑問に繋がりました。

大量消費社会を作り上げたこの国は、 よその国の森林を破壊して、 よその国の安価な労働力を利用して自分達の食卓を満たしています。 その一方で、自国の農地は耕される事が無く荒れてゆき、 自国の都市を支えるための弊害は、 世界的な環境破壊・貧困・戦争に及んでいる気がします。

そこまで考えてしまうと『農業』以外の選択肢がありませんでした。 消極的な動機ではありますが、食べ物を作る『農業』は本当に素晴らしい仕事だと思います。 だからこそ、『農業で食べていける。』と言える百姓になりたいのです。 ただし、都市生活暦35年のヘナチョコな自分が一人前の百姓になれるのか、 そこが私の一番の問題です。(涙)

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鴨川での米作り体験

今から12年程前、 千葉の鴨川で行われた田植え体験イベントに参加しました。 その後、田の草取り、稲刈りと年に3回ではありましたが、 自分が米作りに関われたのが嬉しく、 何より地元の農家の方々と接する機会を得たのは良い経験になり、 それ以降、鴨川の農家の方から直接お米を買うようになりました。

当初は50名程の参加者が翌年には半分以下の人数になり、 結果的にイベント自体が無くなってしまいましたが、 お米を買っていた関係で無理を言い、年に数回押しかけては、 田植え、田の草取り、稲刈りの作業を数年間続けさせてもらいました。

イベントの際、日程の都合で田の草取りが間に合わない事があり、 心配した地元の方が除草剤をまいた事がありました。 無農薬でお米を作るというのがイベント趣旨の一つであった為、 参加者の一人が不満を口にしました。 それに対してある地元の方が、 『本当に安全な物が食べたければ自分で作らなければ駄目だ。』と話し、 私は都市生活者としての無責任を感じさせられ、 それが農業をしたいと考えるきっかけになりました。

現在の鴨川では『棚田オーナー制度』が導入され、 農作業を通じた都市住民との交流による地元の活性化が図られています。

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埼玉での自家用米作り

百姓になるためにお米作りを覚えたい。でも就農資金を貯めなくてはならないので 勤めも辞められない。どうしたものだろうと思いました。

鴨川は通うには遠すぎるし、埼玉にも有機米を作っている農家の方はいましたが、 何より週末しか動けないとなれば天候、季節で作業をする農家の方の迷惑になりかねない。 そんな時、吉田君の友人から秀ちゃんを紹介されました。

彼は大工さんですが、埼玉の毛呂山町に田んぼを借りてお米を作っていました。 彼の田んぼには色んな人がやって来て、田植え・稲刈り時には何十人という人で 作業をします。秀ちゃんは素敵な人で、吉田君は彼と一緒に作業をしたいと言いました。

3月の終わり頃、秀ちゃんの田んぼを訪ねました。数人で休耕になっていた田んぼの草を刈り、 刈った草を燃やしました。 作業が終わり日が暮れて、小さな焚き火の前でおみずは初対面の秀ちゃんに話しました。 お米作りを覚えたい事、でも彼の田んぼで大勢で作業をしても身につかないのではと思った事、 やはり農家の方に教わった方が良いと思った事。彼は簡単に答えました。

『自分でやって見れば?人に教わったことより自分でやった事の方が身につくから。』 そう言って近所で空いている小さな田んぼの話をしてくれました。 必要な機械も仲間で使っているものを貸してくれるとまで。 それから用意したのは『手植え稲作り(農文協)』という本1冊、 数日後には本を読みながら種籾をタライの水に漬けました。

2002年〜2004年まで、4畝程の埼玉の田んぼでは3回お米を作りました。 田植え前に水が抜けたり、稲の病気に動揺して近所の農家を訪ねたりとドタバタ振りは今も相変わらずで、 何かが身についたかと言えば疑問もありますが、ここでの経験がこの先に進む力となった事は確かです。

また周囲の農家の方々との出会い、特に『新しき村』では3町もの田んぼで無農薬米を作っており、 その様子を間近に見るだけでも学んだ事は多かったですし、稲作担当の小田切氏には何度も教えを請いました。 そして、この『新しき村』のお米が、農地を探す私達の視界を広げてくれたのです。

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